会長の言葉

郷土の先覚(2) 会 長 菅原 三朗

 前号で郷土の先覚者、農聖石川理紀之助翁について述べたが、もう一人の先覚者は「菅原源八翁」である。翁は現在の潟上市昭和新関で寛政六年(1794)生まれで明治十二年(1897)八十六歳で亡くなっている。
 幼少時より父母や祖母から礼儀作法を厳しく躾られ、読み書きの素養は十歳の時より、地元円福寺住職名僧の●(=草かんむりに刊)瑞智混禅師に、また十八歳にして大久保村の医者高橋一鳳について医術を学んでおり、進んで久保田城下(現秋田市)の学者に、それぞれの道につき修得する努力をしている。何分にも農家育ちである。ほとんど独学で精進を重ねて教養を深めるとともに趣味も豊かで花道・茶道・詩歌・俳諧・天文暦・算術など数々をたしなんだ。医術については本業ではなかったが、評判を呼び、郡奉行配下の役人より「諸人のためであるから医業を続けるように」と言われた経緯があり、仁医として慕われていた。
 二十一歳にして父親を亡くし家督を相続、新関村の村長名役(肝煎補佐)となっている。
 特筆すべきは、翁四十一歳の天保四年(1833)は、後の世の人々が「天保の大飢饉」と名付けた大飢饉に襲われ、民衆は言語に絶する苦難に遭遇した。その時源八翁は自らの全備蔵を開き難民の救済に全力を尽くし、藩から要請された二倍の三百両と銀一五〇〇貫を献納した。この功績により藩主佐竹公より賞賜として永苗字・帯刀・翁の紋章入りの裃・禄四人扶持を賜っている。

 天保十四年(1843)五十歳の時から本村大久保村の肝煎を勧めたが、その勤めぶりが優れていたので、仲々辞めることを許されなかったが、病気を期に大役を解かれ元木村に別宅を設け「一松軒三石」と名付け、晴耕雨読の生活を始め「日ぐらし草紙」を手始めに数多くの随筆著作を残している。総じて内容は当人の体験や日常の身の廻りの出来事や、折々の感想を綴ったもので、幕末から明治維新前後の急激に移り変わる世相に戸惑う民情の姿を、東北地方の一庶民の目線で鋭く捉えたもので当時の世相をうかがい知る貴重な庶民生活の記録である。原書は毛筆による「漢文漢字仮名混合の候文」であるが、この難解な著書を菅原源八翁研究家である渡辺喜一先生(秋田市住)が四半世紀もの時間を労して、翻刻・校訂したが平成七年三月菅原源八翁顕彰会より「菅原源八遺作全集・上中下三巻」として発刊されている。
 平成六年春、源八翁ゆかりの地新関に「湖南交流センター」が建設されたのを機に「菅原源八翁遺品展示室」が開設され、一般に公開されている。
 源八翁は豊かな教養・識見のもと、ゆるぎない信念で全生涯を通じ清廉を貫き人を助け自分の信ずる道を歩み続けた人格者である。地域の指導者・仁医・随筆家・詩歌人などとしての人物像が、更に広く多くの人々に理解され認識を深められるべき人物であり、眞に郷土の誇れる偉大な先覚者である。